第六十二段 われにあふみ

むかし、年ごろおとづれざりける女*1、心かしこくやあらざりけむ*2、はかなき人の言につきて*3、人の国なりける人に使はれて*4、もと見し人の前にいで来て*5、もの食はせなどしけり*6。夜さり*7、「このありつる人たまへ」と、あるじに言ひければ*8、おこせたりけり*9。男、「われをば知らずや*10」とて*11

いにしへのにほひはいづら*12桜花こけるからともなりにけるかな*13

と言ふを*14、いと恥づかしと思ひて*15、いらへもせでゐたるを*16、「などいらへもせぬ」と言へば*17、「涙のこぼるるに、目も見えず、ものも言はれず」と言ふ*18

これやこの*19われにあふみをのがれつつ年月経れど*20まさりがほなき*21

と言ひて*22、衣ぬぎて取らせけれど*23、捨てて逃げにけり*24。いづちいぬらむとも知らず*25

*1:長年(男が)訪れなかった女が

*2:ちょっとアレな女だったのか

*3:あてにならない言葉につられて

*4:田舎に住んでいた人に使われて

*5:元の夫の前に出て来て

*6:給仕などをした

*7:その夜

*8:「さっきのあの女をよこして」と(その家の)主人に言ったら

*9:よこした

*10:俺を忘れたか?

*11:と言って(次の歌)

*12:昔のツヤッツヤした美しさはどうなってしまったのか

*13:桜の花(=女のこと)も、扱(こ)ける幹(から)(=しごいて枝だけになってしまった)みたいになっちまったな…

*14:と詠んだのを

*15:(女は)(顔も合わせられないほど)たいそう恥ずかしく思い

*16:返事もしないでいたのを

*17:(男が)「なんで返事もしないの」と言うと

*18:(女は)「涙がこぼれるので目も見えず、ものも言えません」と言う

*19:これがまあ(お前、なのか)…

*20:俺に逢う身(妻の座)を逃れ去ってから何年も経つけど

*21:いまだに優り顔も無い(パッとしない)ことだな…

*22:と(男が)詠んで

*23:着物を脱いで(女に)あげたんだけど

*24:(女はそれを)捨てて逃げていってしまった

*25:どこへ行ってしまったのかも、わからない…